さて、
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社会問題①でやって来たテーマの続きである。
ところで、辰巳かどこかの予備校の択一対策で
「なまけもののなまけものによるなまけもののための講座」
とかってのがある(あった)らしい。
なにやら全科目判例百選すらも読まないで受かりましょう
みたいな・・。
そんな要領やちょっとした小手先で受かるもんなら苦労しないし
勉強しないで受かるほど甘くない。
やりたくない人は受けないで欲しいと俺は思う。
真面目に勉強(しようと)している君もそう思うはずだ。
だが、学説や政策や立法を考える際はこのような視点の意味が
0だとは私は思わない。そもそも老人ホームに入る際、そんなに
詳しく法律を勉強しなきゃ契約書を事細かに読まなきゃ駄目
なの?
あるいは、読みそれに納得して承諾したってことを前提に施策を
うって良いの?
な訳無いだろ(ま、実際に法律もそれに多少は配慮している)
さっきの建築問題やNHK問題を見れば一目瞭然
なんだよ。ヴォケ!!ってことだ。
だから、少なくともエリートを目指すなら、そのエリートと言う
ものの意味合いが、今まで思われてきたものとは違ったものだ
位の認識は欲しい。
更に言えば、学部でアフォ相手に講義する。それは
詰まらないだろう。実際、俺も中学高校時は、実質授業妨害
をする連中を見てきているし、腹が立ちまくってたから。
だけど、だからといって頭の良い人たち(俺は必ずしもそうは
思っていない。というか少なくともそのままエリートになって
もらっては困る)だけを相手に接すれば万事良しとは全然
思わない。違うと思う。
自分の尺度からすればアフォかもしれない。
だけど、違った面からすれば全く違った見方が出来る
位の気持ちが欲しい。
俺は、そもそもそういう旧来(のエリート?)尺度が自身を
苦しめているという気がする。むしろ、そういった
尺度にとらわれている限り本当に国民の為になる
立法政策・学説や国自体の改革は生まれ得ないと
直感している。
明治で終わりたくないで終わらずに
高卒だって中卒だって優秀な法学者にでもなんでも
なれる!俺はそういう人材を育てたい!位の気概を
もって欲しい。
俺はそういう意気込みを持ってやっている。明大出ではないが。